浪花節の呼称の始まりに 《横浜市・浪花節・芸能》
ついては諸説あるが、1830年(文政13)の『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』に「ちょぼくれというもの已前(いぜん)の曲節とはかはりて文句を歌ふことは少く詞(ことば)のみ多し、芝居咄(ばな)しをするが如(ごと)し、これを難波(なには)ぶしと称するは彼地より始めたるにや」とある。
これは、関西で浮連節が誕生しかかったころ、江戸へ流れていったと伝えられる浪花伊助とその率いる芸人たちの消息を示す記述かもしれない。
しかし、ここにいう難波ぶしがその後の浪花節と直接つながると証明する資料はない。
1872年(明治5)新政府教務省の指示により、他の芸能と同様に組合を結成し芸の由来書を提出したとき、「浪花節」という呼称が初めて公にされたといえるだろう。
この「東京浪花節組合」(頭取(とうどり)春日井(かすがい)松之助)の発足によって、芸人鑑札を受ける都合上からも浪花節に名のりを変える祭文語りが続々と現れた。
また、「お座敷浪花節」の看板を掲げて大道芸からの脱却を図っていた浪花亭駒吉(なにわていこまきち)らの努力が実ってか、1875年東京・麻布(あざぶ)の福井亭での寄席公演が実現した。
一方、関西では2代広沢虎吉(とらきち)(後の井上晴夢(せいむ))が代表となり、浮連節の芸人鑑札を受け取っているが、まだ東西の交流は行われていなかった。
しかし、明治期なかばまでは浪花節を称した芸人の多くが、弔歌連、祭文と同様ヒラキとよばれる掛け小屋で興行することも多く、大道芸人として軽んじられていた。
明治20年前後の東京での寄席興行記録には、浪花亭駒吉一門の名前しか見当たらないが、その数年後から事情は変わってくる。
岡本綺堂(きどう)の『思ひ出草』に「日清(にっしん)戦争以後からは、浪花節が流行して来た。
その以前の浪花節は専(もっぱ)ら場末の寄席に逼塞(ひっそく)して……(中略)……次第に勢力を増して来て、市内で相当の地位を占めている席亭もお座敷浄瑠璃(じょうるり)、浪花節のビラを懸けるようになった」とある。
関西では1889年、大阪・天満(てんま)に浮連節専門の寄席ができ、井上晴夢らの努力で、しだいに数を増していった。
明治30年代に入ると、東京には浪花亭一門以外にも、上州祭文を母体として発展してきた東家楽遊(あずまやらくゆう)の一派、横浜を中心に人気を得てきた青木勝之助の一派などが台頭してくる。
これは、関西で浮連節が誕生しかかったころ、江戸へ流れていったと伝えられる浪花伊助とその率いる芸人たちの消息を示す記述かもしれない。
しかし、ここにいう難波ぶしがその後の浪花節と直接つながると証明する資料はない。
1872年(明治5)新政府教務省の指示により、他の芸能と同様に組合を結成し芸の由来書を提出したとき、「浪花節」という呼称が初めて公にされたといえるだろう。
この「東京浪花節組合」(頭取(とうどり)春日井(かすがい)松之助)の発足によって、芸人鑑札を受ける都合上からも浪花節に名のりを変える祭文語りが続々と現れた。
また、「お座敷浪花節」の看板を掲げて大道芸からの脱却を図っていた浪花亭駒吉(なにわていこまきち)らの努力が実ってか、1875年東京・麻布(あざぶ)の福井亭での寄席公演が実現した。
一方、関西では2代広沢虎吉(とらきち)(後の井上晴夢(せいむ))が代表となり、浮連節の芸人鑑札を受け取っているが、まだ東西の交流は行われていなかった。
しかし、明治期なかばまでは浪花節を称した芸人の多くが、弔歌連、祭文と同様ヒラキとよばれる掛け小屋で興行することも多く、大道芸人として軽んじられていた。
明治20年前後の東京での寄席興行記録には、浪花亭駒吉一門の名前しか見当たらないが、その数年後から事情は変わってくる。
岡本綺堂(きどう)の『思ひ出草』に「日清(にっしん)戦争以後からは、浪花節が流行して来た。
その以前の浪花節は専(もっぱ)ら場末の寄席に逼塞(ひっそく)して……(中略)……次第に勢力を増して来て、市内で相当の地位を占めている席亭もお座敷浄瑠璃(じょうるり)、浪花節のビラを懸けるようになった」とある。
関西では1889年、大阪・天満(てんま)に浮連節専門の寄席ができ、井上晴夢らの努力で、しだいに数を増していった。
明治30年代に入ると、東京には浪花亭一門以外にも、上州祭文を母体として発展してきた東家楽遊(あずまやらくゆう)の一派、横浜を中心に人気を得てきた青木勝之助の一派などが台頭してくる。
update:2009年08月21日
